海神夫婦に、何百回目かの倦怠期がやってきました……
今回の登場人物 | |
海神 現役を退いたのはすでにはるか昔のこと。いまや趣味のチェスを指す相手もなく、寂しい隠居暮らしを送っている。しかし最古参の神族たる彼の胸には、ある確信と覚悟があった。 | |
雪の女王 人知れず自然の中に存在する精霊たちは、驚くべきことに未だ簡潔で純潔な「初心」のなかに在る。その純朴さゆえ、穢れた兄弟たちに「回心」を迫る差し出がましさすら持ち合わせていない。 | |
ラナ 海神の妻。元来ひじょうに気の強い性質だが、近頃ことさら苛立っている様子。 | |
チェス妖精 海神愛蔵の盤駒たち。論理性を計算力で立証するという、妖精族としては珍しい能力を備えている。 | |
水精 海神夫婦の娘たち。子供のように見えるが、母親同様に若さを相当チートしている。 | |
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海神 ふう… すっかり退屈になってしもうたのぅ… | |
ラナ どうしたの? 退屈なんて、今に始まったことじゃないでしょう。 | |
ラナ もう何百年この地下宮殿に籠っていると思うの、あなた? だいいち、いまさら海上へ出て行って、 昔のように暴れまわる若さもないでしょうに。 | |
水精A 海の上で、暴れるぅ? そんなことしたら、お父様、ぎっくり腰になってしまうわ! | |
水精B その程度じゃ済まないわよ! ねえ、お父様も、お母様を見習って、 アンチエイジングに励むべきだわ! | |
海神 いや… そういう、そもそも論ではなくてな… | |
ラナ じゃあ、何なのよ? | |
海神 うう、その、 たんなる独り言じゃ… | |
ラナ ………あなた。 私、以前にも言ったはずよ? | |
海神 (あっ、この声音はやばいぞ…) はい? | |
ラナ 大して意味もない独り言を呟くたびに、 世界が崩壊するかのようなしかめっ面を いちいちしないでちょうだいっ!!! | |
海神 す、すまん。 そんなつもりはないのじゃが…… | |
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海神 はぁ… こんなところまで歩いてきてしまったか… | |
雪の女王 おい、大丈夫か? | |
雪の女王 ………なんだ。 歩いているのかと思ったら……… | |
海神 おお、すまん。 ここはあんたの縄張りだったな。 | |
雪の女王 かまわん。 私も昔と違って、 だれかれ構わず斬って捨てるようなことはしない。 大人しくなったものさ。 | |
雪の女王 あんたと会うのは、何百年ぶりだ? しかしすっかり老け込んだな。 神族オーラもまるでなしだ。 | |
海神 そうか… じつは、今朝な…… | |
雪の女王 なに。 チェスの相手だと? | |
海神 そうなんじゃ。 しかし、ラナには言えんでのう。 | |
雪の女王 だろうな。 しかし奴が盤駒ゲームなんぞに興味がないのは、 長い付き合いのあんたには分かりきったことだろう。 | |
海神 うむ。 だからわしは、言わんかった。 | |
雪の女王 ではなぜ叩き出されたのだ? | |
海神 顔じゃ。 | |
雪の女王 顔? あんたの? いまさらそれが気に入らないと? | |
海神 ううむ… この頃は、顔を合わせればいがみ合いじゃ。 寂しい話よのぅ… | |
雪の女王 分からんな。 あんたたちは神族だろう? なぜ夫婦などという、 人間臭いしがらみにしがみつくのだ。 | |
海神 むしろ、神だからじゃよ。 我々は、人間の模範でなければならない。 | |
雪の女王 ああ、そういうことか。 夫婦だとか親子、主と召使、男と女…。 それらの役割の範を示すというわけか。 | |
雪の女王 そうでなければ、 やつらをまとめることは難しいからな。 ───あんたたちに都合よく。 | |
海神 むむむ。 お前さんも、ぶっちゃけるのぅ。 いやはや、精霊というは気楽な身分じゃて。 | |
雪の女王 気楽だと? ふん、自分から泥沼に首を突っ込んでおいて。 | |
雪の女王 あんたほど長く生きておれば分別もできていよう、 あんたたちは穢れた精霊、堕ちた天使だ。 | |
雪の女王 都合のいい道具が欲しくて、 人間や 代償はきっちり支払うべきだ。 | |
海神 まぁまぁ、気楽などと軽口を言ったことは謝る。 わしは心の底からうらやましくてああ言ったのだ。 それに…… | |
雪の女王 それに? | |
海神 代償を支払うときは必ずやってくる。 しかもそれは、遠い未来の話ではない。 | |
雪の女王 ほう。 さすがに、物知りだな。 | |
海神 初めから決まっていたからな。 しかし、その時がこうして迫ってくると、 この世界の歴史も、長いようで短いものじゃった… | |
雪の女王 そんな時に、 のんびりチェスなどしていてよいのか? | |
海神 うむ。 これも必然じゃな。 | |
海神 チェスの盤面というものは、 始めと終わりでは眺めががらりと変わる。 可能性が次々に消えていき、 王が詰むころにはほとんどの駒が姿を消す。 | |
雪の女王 ああ、聞いたことがあるぞ。 世界の歴史の終わりには、 人間たちはみな地下へ姿を消すらしい。 | |
海神 まぁ、これがチェスであれば、 詰みが見えた時点で投げればよいのじゃがな、 この世界を終わらすには、 王を取るまで指し続けねばならんのじゃ。 辛いところじゃのう。 | |
雪の女王 始めたものは、終わらせねばならん。 うだうだ文句を言っていないで、 さっさと王を差し出せばよいのだ。 | |
キング(黒) えーっ。 わたくし、首を取られちゃうのですかっ?! そんなの、前代未聞の言語道断ですぞっ! | |
雪の女王 なんだ、こいつはまた いちだんと小さい侏儒だな。 | |
海神 お前たちも話を聞いておったのか、 わが駒たちよ。 | |
クイーン(黒) おーほほほ! ついに! ついにこの時がやってきましたわっ! | |
キング(黒) これ女王、なんですかその満面の笑みは?! 国王の未曽有の大ピンチなのですぞっ?! | |
クイーン(黒) 王の首も取らずに戦いが終わるなんて、 どう考えても権力の横暴です。 なぜいままで正されなかったのか… | |
クイーン(黒) わたくしは長いこと、この歪んだ世界に 犠牲を強いられてきたのです! | |
雪の女王 こっちでも夫婦喧嘩が始まったぞ。 | |
海神 ああ、家族の幻想は光を失った。 すべての役割はその鎖を断ち切られた。 自由の衝動は解放され、 瞬く間に世界を覆うだろう… | |
キング(黒) あーっ、チェックメイトです! 王手ですよっ! ほれ、皆の者、であえ―!! | |
キング(黒) こら、ルーク! ビショップ! 何をしているのです! 私を助けるのが、お前たちの役割でしょう!!? | |
キング(白) ルールは崩れ去った。 世界とともに。 | |
クイーン(白) 最後のゲームを終わらせましょう。 まったく新しい世界を迎えるために… | |
クイーン(黒) 最終奥義…… 王手放置っ!!! | |
キング(黒) ぎゃああああああ そんなぁぁぁあああああああ | |
雪の女王 ……なるほどな。 あんたがにわかにチェスを 指したくなった訳が、分かったよ。 | |
海神 うむ。 わしも、すっきりしたわい。 | |
海神 これで、 予行演習が終わったんじゃ… | |
キング(黒) お、ここが、観覧席ですか。 | |
ポーン(黒) どうです陛下! ここもなかなか、いいところですよ! | |
ナイト(黒) ここへ来てしまえば、 我々は職務から解放されるわけです。 | |
ルーク(黒) 序列もない。皆同じです。 そして、2度と戻ることもない。 | |
ビショップ(黒) そうです。 この平和、この安心感。 これこそが心の故郷なのです。 | |
キング(黒) ああ、お前たち。 あれだけ私の犠牲になって働いてくれたのに、 目の前にいる私をなじることもなく… なんという気高さ、なんという優しさ! | |
クイーン(黒) やっと気づいてくださって、私も嬉しいわ。 | |
キング(黒) おお、女王! いや、私はすっかり改心したよ! | |
クイーン(黒) そう… | |
キング(黒) うむ、まったくじゃ… しかしなぜ、こんな簡単なことができなかったのか? たった一度、「回れ右」をすればよかっただけなのに… | |
雪の女王 気づかなかっただけだ。 お前たちは、難しく考えれば、 なんであろうと解決できると思っている。 | |
雪の女王 それはまったくの勘違いなのだ。 | |
クイーン(黒) そうです。 正しい道は、その逆にあるのです。 | |
キング(黒) なるほどな… | |
キング(黒) ああ、私もやっと、あの盤の上から、 解放されたのだ…… | |
〜〜おしまい〜〜 |